今年は上村一夫が1974年に『潮』に寄稿した文章をご紹介します。
父の人生に思いを馳せる一日です。
『カウンター越しの母』
ぼくが生まれたとき、オヤジは六十二歳、後妻だった母親は四十も歳下の二十歳そこそこでした。オヤジは明治生まれの医者といえば、頑固を絵に描いたようなものでね、わが思い出の母といえば、かまどの前で涙をこぼしたり、じっとうつむいて灰をながめていた背中のさびしさが目の底からわき上がります。
その母が、変わった。ぼくの十二歳のときに、オヤジはこつ然と逝った。そして、極端にいうと、通夜の日から母は変わった。
忍従の二文字に自分を封じこめた母が、喪服の内側から生きている姿を見せた。
ぼくらきょうだい ーぼくは、末っ子の長男ですーを育てる気概を見せてね。母は子を連れて上京し、ぼくを親戚にあずけて飲み屋のオカミになった。
黙っていることに美徳を求められた女が、”イザ”となったときのこの変わりようは、幼いぼくに”女”というものの強さ、凄さ、業みたいなものを無言で示してくれました。
ぼくは反抗期だった。
中学時代からアパートに孤りの生活をさせられて”おふくろ”を憎んだ。だけど、母にはわが子に対する自信があったんだ。母には”血”に対する信仰があった。ぼくはその血の毛細管が断ち切れず、さんざん悪い遊びも覚えてはみたが、結局は母の天地がひっくり返るほどの悪にはなりきれなかった。ぼくの”悪”に足払いをかけたのは絵だった。ぼくは絵に打ち込むことでさびしさを克服できたし、母は自分を、けっして弁解せぬことで、ぼくとつながった。
おとなになれば、わかると思ったのでしょう。
ぼくは、今でもマザー・コンプレックスが強い。『同棲時代』という作品にも、それが影を落としているのではないかと思っている。ぼくは、齢上の女に恋する少年の心を好んで描く。ぼくは、今でも五十歳くらいの女性と恋をすることができる。
とはいえ、ぼくも娘をもつ身になりました。
父親と母親では、たとえばきびしさのひとつをとってみても、あきらかに異質のものがある。
男には、ある哀しさ、もしくはロマンがあるのではないかと思っている。
父の思い出を話していいですか。
小学校のときだった。ぼくはカメラが欲しかった。すると、父は畑の隅の土をくれた。ぼくはそこにトマトを育てた。実ると、おふくろが八百屋以上の値段で買ってくれた。ぼくはその金で、念願のカメラを手にした。
親の愛というものは、強要してはだめですね。”親”といい”子”といっても、所詮は他人なのだからこそ、ひとしお愛し合うんだという認識がほしい。それには自分たちの息子や娘を、きっちり信じてあげることが親子関係の大前提でしょう。両親が、無言のうちにそれを教えてくれた気がします。
『潮』1974年4月号より