しなの川(1973年)
夢師アリス(1974年)
悪の華(1975年)
淫花伝(1976年)
夢二 ゆめのまたゆめ(1978年)
他にも、
涙(1972年/小菅銀次名義)
シリーズ花言葉(1972年)
淫婦変幻(1974年)
煉獄の少女(1974年)
醜聞交響楽(1975年)
くらら(1975年)
愛縄(1975年)
和歌子(1976年)
紅子回想録(1978年)
と、知るだけでもこんなに多くの上村一夫の漫画の原作を書いてくださった岡崎英生さん。
そして、上村一夫の仕事面での一番の理解者だったのではないでしょうか。
そんな岡崎さんが、2022年5月12日に永眠されました。
謹んでご報告いたします。
訃報のお知らせをいただいたのは、8月のこと。
ご遺族のお気持ちがわからなかったので、すぐにお知らせはしませんでしたが、
先日、岡崎さんを偲ぶ会が開かれ、夫人にお知らせの許可をいただきましたので、ご報告させて
いただくことにしました。
岡崎さんは、1943年・山形県山形市生まれ、早稲田大学の仏文科を卒業後、1967年に少年画報社に入社、
創刊したばかりの「ヤングコミック」編集部の配属になりました。
1969年に上村一夫がヤングコミックの表紙画に抜擢され、表紙の担当者として共に仕事をすることになります。
その後、1971年に画報社をお辞めになり、奥成達さんらと異魔人というグループを作り、
のちにタッチ社を創設、1971年9月に月刊タッチを創刊します。
月刊タッチは、ヤンコミ三羽烏と呼ばれた宮谷一彦さん、真崎・守さん、上村一夫を迎えた
青年劇画誌でしたが、版元の経営規模が小さかったこともあり、4号で廃刊となってしまいます。
月刊タッチの表紙は上村一夫画でした
そして、1981年からは創刊されたばかりのFOCUS編集部にフリーライターとして参加。
1986年のFOCUS 1月24日号に掲載された上村一夫の死亡記事は岡崎さんが書いてくださいました。
親しかった故に書きにくいのでは、と周りに心配されながらも自ら申し出てくださったそうです。
FOCUS 1986年1月24日号
先日の偲ぶ会では岡崎さんと机を並べた元FOCUS編集部の精鋭の皆さんがお集まりになり、
当時を想像させるような熱いお話を伺うことができました。
また、編集者、原作者、フリーライター以外にも岡崎さんにはガーデナーという一面がありました。
30代の半ばから奥様の影響で庭仕事を始め、長野に畑を借り、見事な庭や畑を作られていました。
その様子は、2013年に出版された著作『畑のおうちークラインガルデンの12カ月』に詳しく記されています。
写真も文章もとても素敵で心温まる一冊です。
岡崎さんには、父の復刻本のあとがきを書いていただいたり、トークイベントにご登壇いただいたり、
本当にたくさん上村一夫の思い出を語っていただきました。
特に、まんだらけ出版から刊行された『リリシズム』では、巻末で岡崎さん、元ヤンコミ
名物編集長の筧悟さん、私で鼎談させていただいたことが印象深く、父の仕事をする上の大きな転機となりました。
鼎談フォト。左から岡崎英生さん・筧悟さん・わたし(2010年10月/まんだらけ会議室にて)
鼎談の時は、母から父の仕事を引き継いでまだ2年くらいしか経っておらず、父の仕事をあまり知らずに
育った私はまだまだ理解が足りませんでした。
また、家庭を顧みない人だったので、どこか父を軽蔑していた節がありました。
そのため、『リリシズム』の鼎談を読み返すと、私の発言は父に対して懐疑的で冷めた印象があります。
(今読むと私だけが父をわかっていなくて非常に恥ずかしいです)
そんな私に優しく教えるように、岡崎さんは上村一夫の良いところを沢山教えてくださいました。
ヤングコミック表紙の打ち合わせの際、二人で面白いアイディアを出し合った話、いかに上村一夫が
アイディアマンであり、流行に敏感だったか、あるいは酒の席での人柄など、いい面を沢山お話しして
くださいました。
父が小村雪岱や小林古径を好きだったことを聞いたのも岡崎さんからで、いつの間にか私も小村雪岱の
画集を眺めるようになりました。
鼎談以降、上村一夫という人物、作品に向き合う姿勢が確実に変わったと感じています。
知的で、紳士で、情熱を持ってお仕事に取り組まれた岡崎さん。
父だけでなく、娘の私にもお力添えくださり、本当にありがとうございました。
本当はまだまだお話ししたかったです。
どうぞ安らかにお休みください。